欲や執着は本当に悪いの?仏教の矛盾と本質にふれてみる

最近、ネット記事を読んでいて
僧侶に対する不信感を綴る投稿がいくつも目に留まりました。

そのなかには、


「欲を捨てよ」「執着を離れよ」と説く僧侶自身が、
欲や執着にとらわれているように見えてしまう


という声が多く見られました。

それを読んで、私自身も過去に感じた違和感が蘇りました。
今回は、仏教という教えについて、少し自分の考えを書いてみようと思います。

「苦」から始まる説明は、誤解を生む

仏教には、「煩悩を断て」「欲を捨てよ」「執着を離れよ」といった教えがあります。


しかし、これらを“苦しみ”の観点からだけで語ると、
どこか無理が出てくるのではないかと感じています。

なぜなら、その教えを説いているはずの僧侶自身が、
寺を代々継ぐ「世襲制」の中で生活し、
戒名料や高額なお布施など、現実的な金銭と深く関わっていることが多いからです。

仏教が「一切皆苦」「無常」「無我」という真理を説く教えなら、
本来、形に執着する必要などないはずです。

なのに、

  • 「僧侶の家に生まれたから僧侶になる」
  • 「寺を継ぐために出家する」

という制度は、どう見ても“執着”の構造の中にあるように見えてしまいます。

「色」しか見ないことで起きる矛盾

こうした矛盾の根本には、
目に見える世界=“色”の世界だけに意識が向いている、

という問題があると思います。

仏教には「色即是空 空即是色」という有名な教えがあります。


この世界のあらゆるものは、実体を持たず、

エネルギー(空)の流れの中にある


それが仏教の本質的な視点です。

つまり、執着しようとする“対象”そのものが、
実は実体を持っていないということ。

にもかかわらず、「形あるもの」ばかりを重視し、
「見えるもの」だけで人生を語ると、どうしても矛盾が出てきてしまいます。

執着は無意味、欲は自然

目に見えるものに執着すると、

  • 「手に入らない苦しみ」
  • 「失うかもしれない怖れ」
  • 「失ったときの絶望」

などが生まれます。

でも、もしも私たちが

  • 「すべてはエネルギーでできている」
  • 「形は変わっていくもの」


という視点を持てたらどうでしょう?

エネルギーは宇宙に遍満しています。
ならば、「足りない」「奪われる」という発想は必要ありません。

「欲は際限がないから苦しみを生む」と言うのではなく、
欲は、エネルギーの自然な流れであり、創造の起点になると考えることもできるのです。

煩悩もまた、宇宙の一部

「煩悩=悪いもの」とする見方もよくありますが、
煩悩だって、宇宙エネルギーのひとつです。


それを否定することは、宇宙そのものを否定することにもなりかねません。

私たちは人間です。


目に見える世界に惹かれたり、何かを欲したりするのは自然なことです。

大切なのは、


目に見えるものは変化し、やがて形をなくす」という視点を持つこと。

つまり、執着してもいい
でも、それが“絶対”ではないと知っていれば、
執着に振り回されることは少なくなります。

執着が報われなかったときの視点

もし、どうしても欲しかったものが手に入らなかったとしても、
それは違うエネルギーが自分に合っていたということかもしれません。

そう考えると、「失った」「叶わなかった」と思う体験さえも、
違うかたちの“幸せ”への道だったと思えるのです。

僧侶も、もっと正直であっていい

だからこそ、
住職がこんなふうに語ってくれたら、私は好感を持ちます。

「寺の世襲は、私が家系や血筋という“色”に一時的に執着している結果です。
でも、すべては縁起によって成り立ちます。
永遠に続くものだとは思っていません。」

きっと多くの人が、
「ああ、人間らしくて正直だな」と思うのではないでしょうか。

仏教の真髄は、「空(エネルギー)」の理解にある。


その視点に立てば、「欲」も「執着」も否定されるべきものではなく、
むしろ人生の営みとして自然な流れの一部だと見えてきます。

心が苦しみを感じているなら、
それは「色」だけに囚われているサインかもしれません。

少しだけ「空」の視点を持ってみると、
そこには新しい自由と、やさしさが生まれてくるのです。

Sealed with gratitude & LOVE❤️

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